池上本門寺
大井町の南西部に池上本門寺がある。
鎌倉末、法華経を軸にした仏教再興を目指し、他宗や幕府を公然と批判して世を騒がせた日蓮宗祖日蓮。彼は晩年甲斐身延山を拠点に活動していたが、ある時病を得て常陸へと湯治の旅へ出た。しかし、途中体調を崩して武蔵国人池上氏の館に逗留、一ヶ月後に死去した。その跡を寺としたのが池上本門寺である。
総門をくぐってすぐに此経難持坂を登る。熱心な法華信者として知られる加藤清正の寄進で造られたもの。
日蓮宗寺院ではお馴染みの日蓮像。実は元々政治家星亨の像があったが、金属供出のため撤去、戦後になって日蓮像に替えられた。そのためか台座に対し像が小さく見える。
東京大空襲の被害を受け境内の中枢部は戦火に消えた。大門は戦後の再建。
日蓮を祀る大堂。やはり空襲で焼け戦後に再建されたコンクリ建築。
本殿。元は釈迦堂であったが戦後再建の際に近代建築として生まれ変わった。
本殿の左右を飾る仁王像。元は大門を守っていたが何故か堂内に移された。大門に対して小さすぎたためか、でなければ姿勢が大げさすぎて不評をくらったのだろうか。
アントニオ猪木をモデルにしたというその姿は躍動感に溢れ迫力がある。戦後の仁王像は東大寺像の劣化コピーのような面白みのないものが多い印象があったが、この像だけは評価できる。
本殿脇には日蓮の遺灰を納めた霊廟がある。
大殿脇の経蔵。境内中心部にありながら奇跡的に空襲を免れた江戸中期の建築。
大殿の左手に朱色の塔が頭をのぞかせる。
関東最古の五重塔。江戸初期の建築で二代将軍徳川秀忠の乳母岡部局の発願によるもの。
五重塔は墓地の中にあって中心部と離れていたため空襲を免れた。同様に谷中霊園にあった天王寺五重塔も戦災を避けることができた。が、戦後しばらくして放火心中の舞台となり焼失してしまうのであった。
都内にある五重塔は戦後再建の浅草寺、戦後建造の高幡不動を除けばここと寛永寺だけである。
武家の中には法華信者が多く、その聖地たる池上本門寺の墓所には紀州徳川家を始め多くの大名墓地がある。が、区画整理でもされたのかそれらの中には一般墓に混じって権力者の墓と思えないような狭い敷地で窮屈そうにしているものも少なくなく、その凋落ぶりに哀愁を感じざるを得ない。
崩れかけた層塔は、前田利家の側室、寿福院のもの。元は十一層あったらしい。
鳥取藩主池田家初代、光仲の正室、芳心院の墓所、万両塚。
芳心院は紀州家初代徳川頼宣の娘、対する光仲の祖母は家康の次女督姫であり、家康の縁者同士の婚姻であった。
新旧大小ひしめき合う墓地の中、一箇所だけ堀を巡らせた大仰な墓地が彼女の権勢をよく示している。
堀の中からは竪穴式住居の遺構が発見されている。こういう複合遺跡は珍しく、面白い。
伝説的なレスラー、力道山の墓。墓前に捧げられたリアルなブロンズ像に一瞬目を疑った。
雑多な大名墓地に対し歴代住職の墓所は流石に整然としている。
日蓮の荼毘所には宝塔が建てられた。現在のものは戦災を乗り越えた江戸末の再興塔だが、あいにく修理中であった。
山を越えた先には池があった。ただの公園の池にしては大きめだが、何か由来があったのだろうか。
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2012.09.09 | | Comments(0) | Trackback(0) | 23区の寺