鳥取太平記紀行
時は鎌倉末。討幕運動に失敗して隠岐に流された後醍醐天皇は不屈の闘志を燃やし、伯耆国人名和長年を頼って隠岐を脱出、伯耆御来屋の湊に上陸した。
現在御来屋漁港に横たわる大きな岩は、辿り着いた天皇が腰を掛けたと伝わる。
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御来屋に着いた後醍醐天皇は長年を始めとする名和一族の協力を取り付け、大山に連なる霊山、船上山に立て篭もった。
船上山はその名の通り山頂付近に巨大な岸壁が露出し、まるで船が乗り上がっているような独特な山容を持つ山で、天皇と名和一族はこの岸壁を天然の要塞とし、幕府軍を迎え撃った。
この抵抗を契機に各地で反幕府勢力が一斉に蜂起し、河内では楠木正成が活躍、京都では足利高氏、赤松円心が六波羅探題を下し、遂に新田義貞が鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。
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かくして後醍醐天皇による政権奪回は成功し、天皇自身による親政、建武の新政が始まった。
しかし、その政治方針は既に支配者層の一翼を担っていた武士を軽んじたものであり、不満が続出。遂に足利尊氏による反乱を招いてしまう。
一度敗れた尊氏は九州にて再起し、湊川の戦いで新田、楠木軍を撃破、後醍醐天皇を京都より追放した。
これにより、建武の新政はわずか2年半で終わりを告げたのであった。
船上山以来天皇に付き従い新制でも要職にあった名和長年も京都を巡る争いの中で一族と共に戦死。
その首は側近の手で故郷に持ち帰られたと伝えられ、名和町内の畑の中に彼の墓と伝わる三人五輪が建っている。
長年の故地である名和町には彼と名和一族を顕彰する名和神社がある。
丘陵上に広い境内を持つ神社だが参拝者はおらずどこか寂寥感があった。
長年の知名度が楠木、新田らに比べ一段劣るせいであろうか。
神門と回廊を供えた社殿は昭和初期のもの。
拝殿。軒がすごくたわんでいるが大丈夫か?それとも元からこういう設計なのか?
開け放たれた拝殿から本殿を拝する。
どことなく明治神宮と似た空気を感じたのは建造時期のせいか、それとも同じ吹き放ちのためか。
境内の隅に閉じられた建物があった。恐らくは旧拝殿だろう。
本殿の垣根の中に摂社があった。これでは参拝もできまいに。
参道の脇に大太鼓が保管してあった。鳥取城で使われていたものらしい。
境内を出ると入道雲がこちらを見下ろしていた。いい夏の日だった。
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おまけ・浦安駅。
アニメ・琴浦さんに登場する琴浦駅のモデルになったとされる駅だ。
琴浦さんはその名が琴浦町に由来する事から琴浦町とのタイアップが行われ、この時も駅に隣接する施設でアニメの原画展が行われていた。
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2013.08.04 | | Comments(0) | Trackback(0) | 鳥取の神社