金剛寺
国分寺の南方、高幡不動駅を降りるとすぐに高幡不動尊への参道に誘われる。
参道を抜けると視界一杯に高幡不動金剛寺の建物群が広がる。
金剛寺は平安時代に慈覚太師円仁が不動堂を築いた事に始まり、現代にいたるまで成田山と並ぶ不動信仰の霊場として栄えてきた。
室町時代の仁王門。建造時に変更を受け近年まで単層だったものを修理時に二層に直したという。二層目が潰れているように見えるのはそのためか。
不動堂。南北朝時代の建築。平安仏の本尊不動明王は奥殿に移され、替りに近代の不動像が置かれている。
奥殿。いわゆる宝物殿で、正面に安置された不動像は外からでも拝することができ、拝観料を払って中へ入ると不動像を間近で見られる上他の宝物も見ることができる、よく考えられた構造。
丈六不動明王像は平安時代の造像で同時期の矜羯羅、制托迦の二童子を備えた出来作。
高台にあってよく目立つ五重塔は近年の作。
文永の板碑。元々近隣の畑にあり平維盛の墓と伝えられてきたが、最近になって境内に移された。平氏の一族、高麗氏の手になるものらしい。
上杉堂。
京で応仁の乱が起こっていた頃関東では享徳の乱が起こり、鎌倉公方家と関東管領家による泥沼の争いが続いていた。その緒戦となる分倍河原の戦いで敗れ重傷を負った管領方の上杉憲秋はここ金剛寺に逃れ、自刃して果てた。ここは彼の廟堂であり、堂内に五輪塔がある。
五部権現。名の通り五柱の神を祀る鎮守。
御神体は木板の表裏に神名と本地仏、梵字を書き付けたもので神仏習合の格好の史料であり奥殿で見ることができる。
お鼻井戸。
不動堂は元々山上にあり、台風で堂が倒壊して不動像が転がり落ち、鼻をついた所から泉が湧き出たという。
おや、こんなところにも寛永寺灯篭が。
本堂、大日堂。近代の再建。
裏山には八十八箇所巡りが設けられている。
この山は中世高幡城があった。高幡城は城であったという以外詳しいことは分かっていないらしい。
さほど高くない山だが、周囲に高い建物がなかったために周囲の住宅街がよく見えた…面白くない風景だ。
新選組副長土方歳三像。
金剛寺は土方家の菩提寺であった。
土方像の裏に弁天堂。弁天池は噴水となっていた。
車用の祈願所。時代に合わせ宗教も変わっていく。
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2012.12.31 | | Comments(0) | Trackback(0) | 多摩の寺